救急車を呼んだり、また、運ばれたりした経験はありますか?
救急車で患者のもとに駆けつける救急隊は、命を救うことが使命です。
しかし近年、自宅で心肺停止した人の家族などから、蘇生や搬送を拒否されるというケースが相次いでいます。
その数は、全国で年間およそ2000件に上るといいます。
人の命を救おうと駆けつけた先で、蘇生や搬送を断られる・・・これは一体、どういうことなのでしょうか。
ここでは、心肺蘇生を望まない意思表示『DNAR』について見ていきましょう。
目次
DNARとは?
DNARとは、Do Not Attempt Resuscitationの略で、患者本人、または家族など代理者の意思によって心肺蘇生法を行わないことです。
心肺蘇生法とは?
心肺蘇生法とは、呼吸が止まり、心臓も動いていないと見られる人に対して、救命へのチャンスを維持するために行うものです。
脳には酸素が絶対不可欠ですが、脳自体は酸素を蓄えることができないため、呼吸が止まって4~6分で低酸素状態に陥ってしまいます。
そのため、一刻も早く脳に酸素を送らなくてはなりません。
人間の脳は、心肺蘇生が2分以内に開始された場合は90%助かりますが、4分では50%、5分では25%程度と、酸素の供給が遅くなればなるほど、助かる確率は低くなります。
そのために、心臓マッサージや人工呼吸、AEDによる除細動などを行い、蘇生を試みます。
蘇生措置拒否とは?
心肺が停止しても、上でご紹介した心肺蘇生法を望まないという意思です。
昇圧剤や心臓マッサージ、気管に管を挿したり、人工呼吸器を装着して呼吸を促すなどの蘇生処置を、敢えて行いません。
蘇生措置拒否の実例は?
Aさんの場合
94歳のAさんは、「人工呼吸器を付けるような延命治療はいや。自宅で最期を迎えたい」と、よく家族に話していました。
ある日、Aさんはベッドで、意識がない状態で見つかりました。
その様子を見て驚いたAさんの娘さんは、とっさに119番通報をしてしまいました。
到着した救急隊員は、すぐに心臓マッサージを開始し、病院へ搬送する準備を始めました。
ですが、その時、娘さんは、母の意思を思い出して、救急隊員に蘇生を中止するよう求めました。
「このまま受け入れる約束だったんです。蘇生はやめてください」と。
そこに主治医が駆けつけ、救急隊員に回復の見込みがないと説明しました。
このおかげで、Aさんは、希望通り自宅で最期を迎えることができました。
Bさんの場合
当時、Bさんは77歳。
夜、自宅の風呂場で倒れているところを、医師である息子さんが発見しました。
すでに心拍も呼吸もなく、回復は見込めない状態だったそうです。
Bさんは、以前から家族に「もし倒れたら、救命処置はしないでそのまま看取ってほしい」と話していました。
Bさんの意思を知っていた家族は、Bさんが望まない救命処置が行われるのを避けるため、救急車ではなく、警察に連絡することにしました。
事件や事故ではないことを説明するためです。
しかし、駆けつけた警察官は「体がまだ温かいので救急車を呼びます」と救急隊を呼んでしまいました。
Bさんの息子さんは、医師として、父がもう回復しないこと、救命処置や搬送を望んでいなかったことを説明しました。
しかし、まだ死後硬直が起きていないこともあり、救急隊は「それはできません」と答え、病院へ搬送したのです。
その後、Bさんは病院で死亡が確認されました。
Bさん家族は、Bさんの願いを叶えてあげられなかったことを、今でも悔やんでいるそうです。
アメリカでの事例
アメリカ・フロリダ州で、70歳くらいの男性が、意識不明の状態で病院に運ばれました。
男性は深刻な健康問題を抱えており、危険な状態でした。
治療しようと着衣をゆるめると、男性の胸には「蘇生しないで」(Do Not Resuscitate) というタトゥーが刻まれていたのです。
このタトゥーは、本当にこの男性の意思なのでしょうか?
ただのファッションなのかもしれません。
医師らは、どちらなのか判断できず、「不確実な状況に直面した場合には、取り返しのつかない措置は選ばない」という原則に従い、処置を行おうとしました。
しかし、胸のメッセージには、「Not」の部分にアンダーラインが彫られ、拒否の意思が強調されていました。さらに署名も・・・。
つまり、このタトゥーには、蘇生措置拒否の強い意思が表れているとみられたのです。
そこで医師らは、基礎的な治療を施すことで時間を稼ぎながら、倫理問題の専門家に相談しました。
倫理問題の専門家は「タトゥーが真の意思を示していると推論するのが最も合理的」とし、タトゥーを尊重するよう助言しました。
医師らはこれに従い、男性はその夜に亡くなりました。
蘇生措置拒否に対するさまざまな取り組み
もし、あなたが救急隊の立場だったらどうでしょうか。
「蘇生を拒否しているから」とそのままにしておけますか?
蘇生措置を行わなければ、そこで命が終わってしまうと分かっている人を、そのまま放っておけないと思うのは、人として自然な感情ではないでしょうか。
ましてや、救急隊は、人の命を救うために働いているのですから。
救急隊員は、蘇生の拒否を告げられると、1分1秒を争う状況の中で、どうすべきか判断しなければなりません。
しかも、こうしたケースで救急隊員がどのように対応すべきか、全国で統一されたルールはまだありません。
埼玉西部消防局の取り組み
2017年、埼玉西部消防局は、蘇生中止の申し出があった場合の手順を定めました。
- 原則として、あらかじめ本人が記名した書面で申し出る
- 家族は同意書に署名する
- 交通事故や自傷など、外因性の心肺停止が疑われたり、継続を強く求める家族がいたりした場合は蘇生を続ける
- かかりつけの医療機関に連絡し、医師から蘇生中止の指示を受ける
以上のルールを満たした場合、蘇生措置をやめることができます。
2018年、このルールのもと、蘇生中止の申し出は25件あり、そのうち13件が実際に中止されました。
医療機関の取り組み
東京都にある在宅医療専門のクリニックでは、容体が急変した時などにどんな治療を受けたいか、患者や家族の希望を聞く取り組みを始めています。
もし、心肺が停止し、回復が見込めない状態になった時、救命措置を望むのかどうか、患者、家族、医師が話し合っておき、書面に残しておくというものです。
ただし、この取り組みは、蘇生措置拒否に関してだけではなく、できる限りの蘇生措置をしてほしいという希望を残すこともできます。
このクリニックでは、考えが変わる可能性があるので、定期的に希望を聞き取ることにしています。
国の取り組み
総務省消防庁は、救急現場で心肺停止した高齢患者の家族らから「本人は蘇生を望んでいない」と伝えられたケースへの対応について、各地の消防を対象とした実態調査を、2019年度以降、本格化させると発表しました。
同庁は2018年度、有識者を交えた検討部会を設置し、全国728カ所の消防本部に対し、蘇生を望まない患者への救急隊の対応を調査しました。
その結果、「本人が蘇生を拒否する意思表示をしていたと家族らから伝えられた」事例が616カ所であり、84.6%の割合を占めることがわかりました。
また、728カ所のうち、蘇生拒否の意思を示された場合の対応方針を定めている消防本部は332カ所(45.6%)。
患者本人の事前の同意書や、かかりつけ医の指示があった場合、条件付きで蘇生を中止している消防本部もあったそうです。
とはいえ、実際に蘇生を拒否した事例を集計している消防本部は42カ所と全体の5.8%とまだ少ないようです。
そのため、2019年度以降に事例と対応状況を集計して、実態をより詳細に把握し、また最新の終末期医療の状況を踏まえ、標準的な対応を検討していく方針です。
蘇生措置を確実に拒否するには?
今のところ、倫理問題などから、患者が100%蘇生措置を拒否するのは難しい状況です。
しかし、いくつか前例があるように、必ずしも希望が叶わないわけではありません。
一定のルールを定める
救急の現場で、患者の希望通りにいかないのは、患者自身の意思がはっきり提示できないためです。
そこで、埼玉西部消防局のように、一定のルールを定める流れになってきています。
これを受け、東京消防庁でも、一定の条件がそろえば蘇生を中止する方針で、判断基準を設ける検討を始めています。
本人の意思を書面で残す
また、もう一つ大切なのは、意思を書面で残すことです。
家族の言葉だけでは、救急隊員は判断しかねる部分があるからです。
入院時の延命措置や、臓器移植、認知症になった時の対応などと同様です。
現場では、本人に意思確認ができません。
そんな時のために、意思を書面に残しておく必要があるのです。
家族や地域医療機関に意思を伝えておく
患者の希望を叶えるためには、患者本人や家族はもちろん、かかりつけ医など、地域医療に携わるさまざまな分野の人たちが連携する必要があります。
何かあれば、まず主治医への連絡を徹底しましょう。
また、最も重要なのは、家族との意思統一です。
本人に意思確認ができない場合、多くは家族が判断を下すことになります。
この時に迷わないよう、また、できる限り本人の希望に添うよう、元気なうちからよく話し合っておくことが必要です。
まとめ
日本では、今後ますます高齢者が増えていきます。
それに伴い、救急の現場の混乱もますます多くなることは、想像に難くありません。
これまでは、救急隊が現場に行くと、救命措置に100%全力を尽くすのが当たり前でした。
しかし、今後は、蘇生を中止するような手順を選ぶことができる、このような考え方が求められていくでしょう。